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2022年7月10日日曜日

今こそ寛容性を取り戻そう

 

 今米国では、「メリークリスマス」が禁句になっていることをご存じだろうか。その理由は、キリスト教徒の祝祭を非キリスト教徒に強要することに繋がるから、だそうだ。現在欧米を中心に、宗教的側面だけではなく、人種的あるいは性別的側面等において、社会全体を同質化させようとする運動が静かに広がっている。米国でのBLM(ブラック・ライブズ・マター)という人種差別撲滅運動や、LGBTQという性差別反対運動の世界的な広がりは実感として確かであり、これらの究極的な目的は「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)=政治的正しさ」を盾にして、社会から差別を徹底的に排除しようとするものである。この「ポリコレ」とは約40年前からの歴史があるようだが、最近特に際立ってきたのは、ツイッター等のSNSにより個人の意見を拡散しやすくなったことと、そしてそれを武器に反ポリコレ的意見をネット上で弾劾し、不買運動や社会的な抗議活動を行う「キャンセル・カルチャー(排除運動)」と呼ばれるお祭り騒ぎがやりやすくなった情報環境の変化にある。その煽りで生活の隅々で徹底した「言葉狩り」が起こっていて、かつて常套句だった「レディース&ジェントルマン」も性を特定するから使用禁止で、「ハローエブリワン」と言い換えねばならない。なんとも滑稽で意味不明、そして生きづらそうな社会が日本人の生活環境にも押し寄せようとしている。

 こんな話がある。米国のLGBTQを意識した大学生が幼稚園の女児に対して、「あなたは男の子かもしれない」と言ったことで、自宅に帰り母親に「私は女の子だと思っていたのにそうじゃないと言われた」といって泣きじゃくってしまった。この例に見るように、「差別」は駄目だが「区別」は人としての分別を弁えるためには重要なのであり、世の中の事象そのものの標準的価値基準を理解することこそ、人間の本質なのではないのか。

 今の世界のトレンドは「多様性(ダイバーシティ)の受任」ということとなっているが、現実は前述のような「ポリコレ」や「キャンセル・カルチャー」などにより、「多様な意見や人、言葉」を徹底排除する真逆の事態が露呈している。本末転倒である。

 森羅万象に神が宿ると信じる日本人は、そもそも多様性に長けた国民性である。それだけに今こそ日本人は欧米かぶれを避け、他国とは違った文化を維持する気概が必要だと思う。少なくとも次の世代を引き継ぐ子どもたちに対しては、「これダメ」とか「それダメ」と言って思考停止させるのではなく、人とは違う価値観を尊ぶような、寛容性に満ちた生活文化を再定義していって欲しいと願っている。

 

2022年2月10日木曜日

人は後ずさりしながら未来へ


  仏の詩人ポール・ヴァレリーの作品の中に、「湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく」という一節がある。あるコラムを拝読して知った言葉なのだが、読んだ時点では理解できなかった。ただ閉塞感が続く時間軸の中で、その言葉の持つ意味が理解できたような気がしている。

 昨年末に内閣府が発表した北海道・東北の地震被害の発生予測に驚愕するとともに、南海トラフの巨大地震の可能性なども合わせて多くの自然災害への不安は治まることは無いが、さらに人口減少を前に身をすくめるだけの日本経済と政治、そして近隣諸国からの安全上のリスク等が見え隠れする中、現在の我々の生活は不安と同居した監禁状況だ。そんな中で心の安定はありえるのか。冒頭の一節がその答えになるのではないか。 

 誰にも未来は見通せないだけに、せめて自らの過去を知り学び親しき人と共有し、そして後ずさりしながらゆっくりと未来に向かう、これにつきるような気がする。


※本文は、令和3年11月27日に山陰中央新報紙の「こだま欄」に掲載された文章です。


2021年11月27日土曜日

「効率的」という病の自覚を

 

 昨年来の新型コロナウィルスの流行は、数年はかかると思われる生活へのネット技術の社会装備を、単年度で実現してしまい、今後もさらに進化し拡大していくのだろう。ただ最近気になる言葉が話題となっている。「スマホ脳」だ。

これは一日2時間以上のスマホ利用によって、鬱や睡眠障害のリスクに晒された脳のことらしい。この事実を熟知している米国のIT関連の事業家は、自分の子どもにはスマホの使用制限を徹底させているそうだ。とすれば、スマホの「ながら視聴」こそ効率的な情報収集スタイルだと思い込み実行していた私としては、その危機感の下使用制限を試みた。

結果はどうか。今まで私の脳に無差別に乱入していた言葉の代わりに、頭の中にぽっかりと小さな自分の部屋が出来たような感覚が生まれ始めた。ひょっとしてこれが今話題のマインドフルネス状態なのだとすれば、利便性から距離を置くことこそ、地頭を強化することなのかもしれない。


※本文は、令和3年11月27日に山陰中央新報紙の「こだま欄」に掲載された文章です。

2021年7月20日火曜日

安心求めすぎているのでは

 

 音楽家の井上陽水氏のヒット作で、「探しものは何ですか、見つけにくいものですか」で始まる「夢の中へ」という曲がある。最近この曲が頭から離れない。未だ収束しない感染症がもたらす社会の閉塞感に耐え切れず、私の脳みそが安らぎを求めた結果、「夢の中へ」という言葉にすがり始めたのかも知れない。ただ曲中に、「探すのを止めた時、見つかることもよくある話で」というくだりがあるため、この言葉に希望を託しているのかなと思えなくもない。

詩人である相田みつをさんの有名な作品で、「セトモノとセトモノとぶつかりっこすると すぐこわれちゃう どっちか やわらかければだいじょうぶ やわらかいこころを持ちましょう」という詩がある。正に今は、「安心」という探し物を求め過ぎるがゆえに、世知辛いセトモノ的な心がぶつかっている状態ではないのか。「探すこと」は続けるとしても、一旦五輪への夢を語れる余裕を共有しようではないか。

※本文は令和3年7月20日に、山陰中央新報紙の「こだま欄」にて掲載された文章です。

2021年5月11日火曜日

東京オリンピック2021開催への懸念

 

 東京でのオリンピックの開催まで2か月余りとなってきた。何とか開催したいIOCや国内関係者と、何がしかの思惑も含めて新型コロナを盾にここぞと反対を唱える集団と、にぎやかになってきている。

 私としては、何とか開催して欲しいとの希望は持ってはいるし、約10万人のアスリートやその関係者が移動することに期待する産業にとってはより一層開催に向けて期待を込めていると思う。それだけに、余り反対をしたいとは思わないが、ただ一つ疑問は残る。それは来日するアスリートの感染に係る問題だ。

 多分来日する人たちは事前に検査を受けるのであろうが、もしも偽陰性で来日し、無症状であっても東京で陽性反応がでる可能性はゼロではない。その際、それがアスリートであった場合、競技に参加できるのであろうか。現在対策されている状況からすると、それは不可能だと言わざるを得ない。とすれば、それが有力なアスリートであったとしても、突然帰国の途に就き、代役が参加することとなる。そんなケースが同じ競技で複数発生しただけでも、その競技の結果の重みは相当低くなるに違いない。逆に実行することに意義があるのであれば構わないが、オリンピックとはそんなアマチュアな競技だとはとても思えない。とすれば、ワクチン接種のみで参加OKとするならば良いが、アスリート全員が確実に陰性である確証がなければ、開催すべきではないような気もする。

 現在の国内の対応については、非常に疑問があるのだが、しかし海外の訪問者が10万人来日するということを考えれば、別次元の考慮をすることが、望ましいのではないだろうか。

2021年5月6日木曜日

ミニマリストの勧め

 

 最近若者を中心に流行している言葉に「ミニマリスト」がある。これは装飾的要素を排除し、必要最小限のモノだけで暮らす生活様式を指すのだが、「断捨離」にも通じる概念なのだろう。私がこの言葉を実践しようと思ったきっかけは、近年多発する自然災害に万が一遭遇した際の現実的な備えへの危機意識が芽生えたことと、自らの終末というゴールに向けて、後々周囲に面倒を掛けないように、日々不用品の整理と超シンプルな生活スタイルを心掛けねばと決意したことにある。

 私事もさることながら、現在の感染症の拡大により「ニューノーマル(新しい常態)」への関心は高まっているが、数年前から倫理に基づいた消費活動の推奨とか、循環型社会の重要性が世界的に唱えられていることを考えれば、この機に国民的にも消費活動を含めた生活様式そのものを見直してみるのも良いのではないか。そもそも欧米の「足す文化」に対して「引く文化」を持つ日本。「わび・さび」の精神を再び呼び覚ませば、日本が世界を文化的にリードしている姿が見えてくる。


2021年4月11日日曜日

「あみだくじ」だよ、人生は!!

 

 還暦を迎え自らの過去60年間を振り返り、あの時こうしていれば人生どうなったんだろう、などと人生の転換点をいくつか辿ったところで、人生は正に「あみだくじ」であることに気づいた。このリアルな「あみだくじ」には、宿命という人生のゴールへと導く縦軸と、「運ばれる命」の寄り道としての横軸が存在しているのだとすれば、人生の分岐点である横軸の数が少なければ堅実な人生であり、逆に多ければ波乱万丈な人生ということか。多分私は後者の部類だろうが。

 但しこの「リアルなあみだくじ」は、宿命というゴールは動かないとしても、自分の経験則を発揮すれば、今後出会いそうな人生の分岐点については、自ら選別できるはずだ。つまりゴール前の花道は、自分で演出できるということかも知れない。

 コロナ禍でニューノーマル(新しい日常)な生活習慣が謳われる中、私にとってのニューノーマルな終末期を迎えるための準備を始めたところだ。

※本記事は、令和3年4月10日に山陰中央新報に掲載された投稿分です。

2021年3月10日水曜日

今こそ「和して同ぜず」精神を

 新型コロナウィルス感染が判明してから約半年が経過した。最近は多少だが人の動きが活発化してきているように感するところだが、経済の悪化や自殺者の増加が明らかとなり、また高齢の親に感染させたとして訪問介護士への訴訟が起きたり、先日本紙で掲載された「保育士のマスクで子どもに変化」という記事にある保育現場での子供の変調等、悪影響自体はむしろ広がっている。半年の間にデータ分析がなされ、感染症の傾向は明確になってきているのに、それを踏まえるどころか、同調圧力的な空気はいまだ漂っており、新たな事態の発生を危惧するところである。
 孔子の言葉ではあるが「和して同ぜず」という、日本のお国柄を表わすことわざがある。これは「協調性を持ちながらも主体性は失わない」という意味なのだが、現在の日本人の姿は、「同じて和せず」と逆のイメージではないか。「同調するけど協調はしない」という印象を受けてしまう。心を少しずつ開いていきませんか。



※本記事は、令和2年11月30日に山陰中央新報紙の「こだま欄」に投稿・掲載された文章です。

2020年10月24日土曜日

『三蜜』という捉え方とは

 


 現在の新型コロナウィルスの渦中では、「密閉・密集・密接」を表す「三蜜」という言葉が定着している。そんな中偶然に知ったのだが、仏教の真言宗を代表とする密教においてもこの「三蜜」という言葉は既に存在していて、「身蜜(正しい態度)・口蜜(言動の慎み)・意蜜(利他への想い)」を指しており、この3つの実践こそが「即身成仏(生きたまま仏になる)」に繋がる、という教えなのだそうだ。造語として発生した現代の「三蜜」は、社会における人との接触に警告を鳴らし、仏教用語のそれは、人としての在り方への警告だと捉えれば、特にこの時期だからこそ、「人間よ、今一度生き抜くための価値観を改めよ」と天からの声が降っているかのような気持ちにもなってくる。

 疫病が時代の大変革をもたらす、という言い伝えもあるようだが、いずれにしても断捨離だけではなく、自身の物心両面における価値観を棚卸して、再考する期間なのかもしれない

※本原稿は山陰中央新報紙の「こだま欄」に投稿・掲載された文章です。

2020年7月3日金曜日

「気」を高めて変化と還暦を迎え撃つ


今年の干支は「庚子(かのえね)」で、「庚=力強い」と「子=始まり」が合わさり、世に大きな変化が起こる年回りになるそうだ。
 今年も既に折り返し地点の現在だが、感染症という目には見えない恐怖が人々の移動を止め、経済を止め、さらに不安に陥れた現実を振り返ると、実は神が我々に対してすべての慣習を一旦消去して、新たに地球上で生き抜くルールを考えろ、と気づきを要求しているような思いにもかられる。
 現在「ニューノーマル」という言葉が流布している。当然これは感染症対応を通して得た経験知を、今後の働き方や生活習慣に活かして行こうというシンボル的テーマだ。私自身も今年は還暦を迎える年であり、区切りの年とも言える。変化の年と言われる今年の後半、どのような変化が起こるかは知る由もないが、火山由来で包まれた「パワースポット」、我が町大田市。ゆっくり温泉に浸かり、「気」を高めて変化と還暦を迎え撃ちたい。

※本文章は、2020年7月3日に山陰中央新報新聞紙上「こだま欄」への投稿文です

2020年1月27日月曜日

日本初!自動運転バス発進

いよいよ、本年4月から日本初の自動運転バスの定期運行が始まるようだ。場所は茨城県境町。

バス本体は、フランスのベンチャー企業で自動運転バスを製造している「ナビヤ」の「NAVYA ARMA(ナビヤ アルマ)」。運営はソフトバンクグループのSBドライブ。


当面は単純なルートでの運行だが、徐々に隅々にまで運行ルートを広げる予定だそうだ。
実際に始まれば、様々な地域に広がることと予想され、楽しみな試みと言えるだろう。
期待したい!!!!!!!!

2018年3月15日木曜日

「木」も「森」も見よう


 「木を見て森を見ず」、という言葉がある。これは細部にこだわっていては、全体を見失ってしまうことを戒める言葉として使われている。最近特に、マスメディアの報道内容に接するにつけ、日本人はこの言葉を既に忘れてしまったのではないかと思う。
 約4年前、STAP細胞で一躍有名になった小保方春子氏。結局彼女の論文や実証不可能な事例を論われて、バッシングとともに世間から消えて行った。しかし今から2年前、米国の再生医療専門誌において、米国の科学者により小保方氏理論の幹細胞の存在を証明する研究内容が発表されている。ここで言いたいのは、話題になりそうな事象を捉えて繰り返し垂れ流すマスメディアに対して、日本人はもっと大局的な見地も持たなければ、文化の崩壊に繋がることを知らねばならないことだ。
 今日本の社会全般において、モラルの喪失を常に感じている。今こそ、俯瞰した社会の在り方を望む人々が増えていただくことを希望して止まない。

2018年3月3日土曜日

准ファンドレイザーとして活動開始!!

准ファンドレイザーとして活動を始めます。
今月のチラシをご覧ください。
多くのご意見をお待ちしております。


2018年2月27日火曜日

お伽噺よりも共感を

 「ゆったり清らかなしまね」という言葉はご存知でした?これは島根のスローガンなのですが、多分知らない方が多いと思うし、単純にイメージが伝わりにくい。ただこのような文言は、町の至る所で散見され、何故こんな看板を出しているんだろうと不思議に感じることは多いと思います。何がしかの予算が余ったから作成したとする要因は考えられますが、余りにも無駄な感じがします。


 現社会では、「共感型」が重要だとされています。つまり、夢物語の文言よりも、聞いてイメージできて、共感を得られるメッセージが無ければ、人は動かないということです。観光事業において最近、「体験型観光」がマスコミ的に話題になってきましたが、これはまさに「モノより共感」を重視する傾向を意味します。これは観光事業だけではなく、人にメッセージを届けたい企業や行政においても共通しています。


 お伽噺のようなメッセージではなく、実感を得られるメッセージの発信こそが、人を動かす原動力であることを認識したいものです。

2017年8月25日金曜日

終い方の選択

 先日ちょっと気になる数字を発見した。「91.1%」。これは、65歳以上の人を対象に平成24年に内閣府が実施したアンケート調査の結果で、「延命のみを目的とした医療は行わず、自然にまかせてほしい」と回答した割合である。「少しでも延命できるよう、あらゆる医療をしてほしい」との回答は4.7%であったと報告している。ただ何らかの疾患により所謂「延命治療」を受けているのは約半数となっていることから考えると、本人の死生観ではなく、家族の想いが優先している現実が見えてくる。
 人はオギャーと生まれて以降、「必死」になって「死」というゴールに突き進む。「死」がゴールであるならば、せめて人生の結末は、本人の希望を優先すべきではないか。医師は「生の継続」が生業であるし、家族は現状の継続を期待する。ただ人は永遠に継続することは不可能な訳で、ならば各人の「死」への理想形を尊重することこそ、重要な思いやりではないかと感じるこの頃である。

2017年4月10日月曜日

転ばぬ先の杖

「親の介護で、家族・親族間が呆然絶句の醜い争いの現実…無知な素人だけの話し合いで地獄」
http://biz-journal.jp/2017/04/post_18632.htmlより

自分自身も経験していることだが、親の介護については、先ずは介護保険への知識が最も重要となる。まだまだ平気!と思っていても、親の介護への必要性は突然訪れることが多い。
 実際にここ1年間で、私の友人が突然電話をしてきて、「もう無理だから助けて!」と親について相談を受けている。まあ介護世代になったと言えばそれまでだが、私は仕事のおかげで介護保険制度はほぼ熟知している方だが、一般の人はほぼ知らないケースが多い。大切な親のことなのに、自分の世界とはかけ離れていると、つい気を許していることが多く、家族も高齢者本人も日常生活を継続する意識しかないのが殆どだ。

 前述の記事にもある通り、あっという間に親に介護が必要になった場合、日常生活にも、さらに死に至った際の財産分与等についても、親自身の意思は反映することが不可能で、家族間で醜い争いを余儀なくされることが実に多い。

 介護生活の実態、そして親の意思が伝わらなくなっていく現実を考えれば、最近よく耳にする「終活」の必要性を、勇気をもって今からでも考えた方が良いと思うし、親本人も、「死」の話を忌み嫌うのではなく、自分らしい終末の迎え方として早いうちに取り組む必要があると思う。これは介護の現場の人間として、本当に実感している。

2017年4月6日木曜日

デザインの力

 

「デザイン」というと、ファッションや車、ポスターや絵画など、色や形、文字などを駆使して表現した「視覚的なモノ」とするのが一般的だが、数年前から企業がデザイン思考の経営戦略に舵を切っていることをご存じだろうか。最も有名なのがアイフォンを開発したアップルのスティーブジョブズ氏。彼は常に、「禅ぽくない」とか「美しくない」とかの発言で周囲を困らせたようだが、この姿勢こそが「デザイン思考」。つまり彼は、商品自体の姿形ではなく、ユーザーが手にした時の驚き喜び、そして使いやすさを実感している様に拘っていたのである。つまり、商品が生み出すユーザーとの繋がり全体をデザインしていたことになる。

 事業戦略や観光振興、さらに町づくりでも同様だが、一方的な宣伝ではなく、5W1Hで表現できる顧客との関係性全体をデザインすることを前提に、実施して欲しいと願っている。

2017年4月5日水曜日

ロボットでは介護問題は解決しないんです

HALとか介護関連のロボット導入の話題が今再燃している。
確かに介護には力仕事の部分は存在しており、ロボットのサポートがあれば楽に実行できる部分もあるのは確かだ。しかし、私は現場の人間ではないにしても、業界における介護問題の多くは、マインド・コントロールの部分にある。
 要介護者によってサポート内容は 変わるにせよ、大半は排便の問題や、徘徊や暴言による介護者における人としての尊厳部分をどう相対するかにかかっている。よって「力」のサポートというよりは、「心」のサポートが最も重要となっている。

 AIで簡単な会話ができるロボットは、要介護者の一時の気分を和らげるのには非常に有効だ。だが、やはりそれは単なる一部であり、大変の介護者の仕事は様々な対処作業だ。歩きながら小便・大便を垂れ流す要介護者への対応は、精神的な消耗が半端ではない。

2015年11月10日火曜日

やっちゃえ、ニッポン!!


 「2020年には自動運転車が利用可能な社会にする」。10月4日の京都における国際フォーラムでの安倍首相の発言だ。3人に一人が高齢者となる10年後を見据えると、この首相発言は重要な意味を持っている。
自動車による交通事故の発生件数は年々減少傾向にあるが、高齢者によるそれは、年々増加しており、昨年度の発生件数に占める割合は2割強で、10年前の約1.9倍となっている。高齢者による高速道路の逆走や、標識を無視した道路侵入などが後を絶たない。交通網が不備な地方都市では、特に車は不可欠だが、加齢が引き起こす不幸な事故は、できる限り避けたい。これを解決に導く技術が、まさに自動運転車の実用化だと思っている。
 首相の発言を知ってか知らずか、1999年に先駆けて開発していた日産が、今年8月に始めた矢沢栄吉の「やっちゃえ、日産」のCM。公道実験を阻害してきた行政にメスを入れ、民間主導で実用化が進むことを願っている。

2015年9月26日土曜日

「美しい日本」で国を二分

「美しい日本」。第一次安倍政権発足時の総理のキーワードだ。多分今も、この言葉を胸に秘めているに違いない。しかし今この言葉の解釈で、国が二分されている。「戦争法案」と揶揄される安全保障関連法案に対して、日本人の美しさに対する認識で国は二分されている。

  「美しい」と「綺麗」とは意味が異なる。前者は内面の凛とした佇まいを指すのに対して、後者は視覚的に整った状態を表す。日本が伝統的に育んだ精神社会は、前者を指す。「人事を尽くして天命を待つ」という諺があるが、これは「全ての可能性に立ち向かう姿勢が出来たならば、後は天に任せる」という意味だ。今に照らしてみれば、自利のみを貫く隣国が存在する限り、万全な備えをすべきと解釈するのが正解なのではないか。仏教の涅槃経第三にも、武器を持つことへの勧めが明記されている。 究極的な場面で、「そこまでするなら話し合うぞ!」は通用しない。

今こそ寛容性を取り戻そう

   今米国では、「メリークリスマス」が禁句になっていることをご存じだろうか。その理由は、キリスト教徒の祝祭を非キリスト教徒に強要することに繋がるから、だそうだ。現在欧米を中心に、宗教的側面だけではなく、人種的あるいは性別的側面等において、社会全体を同質化させようとする運動が静か...