2015年9月26日土曜日

「美しい日本」で国を二分

「美しい日本」。第一次安倍政権発足時の総理のキーワードだ。多分今も、この言葉を胸に秘めているに違いない。しかし今この言葉の解釈で、国が二分されている。「戦争法案」と揶揄される安全保障関連法案に対して、日本人の美しさに対する認識で国は二分されている。

  「美しい」と「綺麗」とは意味が異なる。前者は内面の凛とした佇まいを指すのに対して、後者は視覚的に整った状態を表す。日本が伝統的に育んだ精神社会は、前者を指す。「人事を尽くして天命を待つ」という諺があるが、これは「全ての可能性に立ち向かう姿勢が出来たならば、後は天に任せる」という意味だ。今に照らしてみれば、自利のみを貫く隣国が存在する限り、万全な備えをすべきと解釈するのが正解なのではないか。仏教の涅槃経第三にも、武器を持つことへの勧めが明記されている。 究極的な場面で、「そこまでするなら話し合うぞ!」は通用しない。

2015年9月1日火曜日

デザインの模倣の行方は


 とうとう東京オリンピックでの佐野氏のエンブレムが使用取り下げとなってしまった。結果としては、佐野氏が記者会見で説明した当初のデザインコンセプトが、採用が決定した際のデザインに反映されていなかった食い違いをみると、やはり「パクリ」と言われても反論できないだろう。
ただ考えてみると、文化とはパクリから始まるのが大半だ。特に日本は「ものまね猿」ともかつて言われており、品の無い中国のパクリとは全く異なるが、大なり小なりパクリによって玉ねぎ文化といわれる今の文化を形成してきた経緯がある。

 しかし日本の「パクリ文化」は何が違うのかといえば、最初はパクリでも、日本人にフィットした機能を追加している点にある。縮文化よろしく、団扇を扇子に形状変更するなど、機能性を重視しており、パクリではないが、ソニーのウォークマンなども機能を追求した結果の商品といえる。
 では西欧との違いは何なのかというと、日本は引き算で余計なものをそぎ落とした形を追求するのに比べ、西欧は足し算による形状の豪華さを尊重する傾向にある。所謂造形美の追求だ。

 今回の佐野氏のパクリ問題には、若干評価すべきこともあるように思う。それは、日本文化に存在する「デザインの多機能性」を持たせた点である。つまり、造形的には模倣といわれても仕方ない部分が確かにあるが、そのデザインを基にした使用の多様性を持たせている点にある。これぞ日本の機能に端を発したデザインであると言えまいか。

 今回の事案で、佐野氏への攻撃はしょうがない。しかし、パクリの範疇を考え直す機会となってくれればと思っている。

今こそ寛容性を取り戻そう

   今米国では、「メリークリスマス」が禁句になっていることをご存じだろうか。その理由は、キリスト教徒の祝祭を非キリスト教徒に強要することに繋がるから、だそうだ。現在欧米を中心に、宗教的側面だけではなく、人種的あるいは性別的側面等において、社会全体を同質化させようとする運動が静か...